ト ラ ン セ ン ド ・ ブ ル ー  ×  ナ イ ト ラ ン ド

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 剣一が初めて天地清浄流の奥義を目の当りにしたのは12歳の頃、自宅に構えられている道場であった。

 春の麗らかな昼下がり、大きく開け放たれた窓から清々しい風が道場の中に優しく吹き込んでくる。
 壁に掛けられている門下生達の木製の名札が、カタカタと愉快な音を立てて風と戯れていた。
 そんな心地の良い空間の中で、剣一と父親である榊 真道さかき しんどうが稽古に励んでいた。
 2人とも黒い上衣と袴で身を包んでいる。
 この道着の色は、清浄流では師範以上にだけ許されるものであった。

 親子である前に武術家として師弟関係にある2人が、体術の稽古として約束組手を行っている。
 一連の流れが終わると、お互いに頭を下げて礼をした。
 本日の稽古は終了したが、まだまだ元気いっぱいの剣一。
 師であり父である真道に久しぶり褒められた事もあってか、完全に調子付いた剣一は、あろう事か天地清浄流の奥義の伝授を申し出たのであった。

「ねぇ、父さん! そろそろ僕にも奥義教えてよ!」
「んっ!? はっはっはっ!」

 剣一の申し出を真道は豪快に笑い飛ばした。

「いいか剣一、よく聞け。奥義ってのは人や師に手取り足取りして教わるものじゃない。様々な物事を自分の目で観て、耳で聴き、肌で感じ、そうして培った経験の先に極み、奥義というものがあるんだ」

 そう諭すかのように言う真道の目は、剣一を真っ直ぐに見据えていた。

「つまり教えられないって事なの?」

 真道の言葉に釈然としない剣一は、少々ふて腐れる。

「剣一、まだ12になったばかりのお前に理解しろという方が無理かもしれんが、お前が強さを求め続けるのならこれから生きて行く先で、きっと奥義を手にする日が来るだろう」

 真道は何処か遠くを見るような目でそう語ったが、すっかり黙り込む剣一に視線を移すとニヤリと笑う。

「とは言ってもそれじゃあ余りになぁ!」

 そう言いながら真道が、表情の明るくなった剣一の顔を覗き込む。

「よーし剣一! 俺の背後からでいい。そこの木刀を持って本気で打ちのめす気で掛かって来い!」

 剣一は言われるままに壁に立て掛けられている数本の木刀の内、いつもよく使っている樫の木で作られた木刀を手にした。

「父さん、本当にいいの? これ木刀だよ!?」
「なんだ剣一、木刀じゃ不満か? 俺は木刀でなく真剣でも構わないぞ!」

 真道はおどけた口調でそう言ったのだが、剣一にはまったくそれが冗談には聞こえなかった。

「手加減するんじゃないぞ剣一! お前の全力で来い!」

 剣一が真道の背後に周り木刀で上段の構えを取る。
 剣術において上段の構えは、非常に攻撃的な構えであり〈 火の構え 〉と呼ばれる。
 清浄流の剣術においては、他の流派を圧倒するその攻撃性から畏怖と敬意が込められ、剣術界からは〈 炎の構え 〉と呼ばれていた。

 この時の剣一の剣術の技量は、並みの大人ではまったく歯が立たないまでに成長していた。
 しかし今、自分の目の前に立つ武術家は、紛れも無く世界で最も強い武術家だと、剣一は十分に知っている。
 背後からとはいえ、打ち込むタイミングを悟られては簡単にいなされてしまうだろう。

 剣一は心の中で打ち込むタイミングを計る事を止め、体の自然な反応に任せる事にした。

 静止する2人に悪戯でもするかのように、風が頬を伝い髪を撫でて行く。
 剣一が真道の背を前にして何分が経過したのだろうか、道場内を時が止まったかのような静寂が支配している。

 しかしその時は、刹那に動き出した。

 剣一の重心の均衡がほんのわずか崩れた瞬間、剣一の体は迷う事なく自然に反応した。
 踏み込む力も速度も今の剣一の実力には申し分がない。
 全てが完璧に噛み合った動作が、振り下ろす木刀へと無駄なく美しく伝導されていく。
 真道は明らかに剣一の動きに反応仕切れていなかった。
 炎の構えから繰り出された渾身の一太刀が、真道を容赦無く襲う。
 剣一は完全に討ち取ったと思った。

 ・・・・・・・・!?

 視界の景色は反転し自分が宙を舞っている事が、剣一にはまったく理解出来なかった。
 自分には一切触れてもいない真道が、振り向き際にいったい何をしたのだろうかと、剣一の頭の中は混乱で一杯になっていた。
 剣一は受身を取る事も忘れてしまい、背中から激しく床に落ちる。
 床がバタンと大きな音を立てて揺れる。
 そして静まりかえる道場に響くのは、剣一の手から離れた木刀のカランカランという乾いた音だった。

「・・・いい太刀筋だったぞ、剣一」

 仰向けに倒れ呆然と天井を仰ぐ剣一に、真道が優しく声を掛けた。
 今日はこれで2度も褒められた。
 剣一は武術の稽古において、真道に余り褒められた記憶がなく嬉しいはずだった。
 しかしこの2度目は、完全なる敗北を後にしては嬉しく思えなかった。

 真道が静かに口を開いた。

「これが清浄流奥義の果て【 絶世界ぜっせかい 】」

 この奥義を前にして何か通用する手立てなどあるのだろうか。
 これは挫折した者の前に立ちはだかる高くて分厚い障壁などではない。
 剣一の前に立ちはだかったのは、形状自体を認識する事が出来ない限りなく澄んだ黒い障壁だった。
 その障壁は何処まで高く、どれだけ分厚いのかなど、まるで検討も付かない。
 剣一は実際にその身で奥義を体感する事で、伝授の申し出をした時の真道の言葉をなんとなくではあるが理解した。
 これはやり方や理論を教わって会得出来るような代物ではないのだと、身をもって知らされる事となったのだ。


 校庭へと向かう剣一は谷口の言葉に、奥義を体感した時の事を思い返していた。
 そして、ふと先代超えを果たした時から頭に引っ掛かっていた疑問が甦る。
 先代越えの時に、なぜ真道は奥義である〈 絶世界 〉を使わなかったのだろうかと。
 数十世代に一人会得出来るか出来ないかと伝えられる奥義、しかも真道が見せた〈 絶世界 〉という奥義は文献には一言も記されていない。
 そんな秘中の秘とも呼べる奥義を手にする真道が、まだ奥義の何たるかにすら触れてもいない剣一に敗れるはずなどがなかった。
 今の剣一には、拭えない疑問を抱えながら3人と共に、校庭へとひたすら歩く事しか出来なかった。

 校庭ではまるで烏合の集のように泣き叫ぶ生徒や教員、更には学校周辺から非難して来た街の住人達で溢れ返っていた。
 そこへ剣一達4人もようやく加わる事ができた。

「やっと着いたな」
「ああ」

 ほっとする谷口に、橋本が胸を撫で下ろす。

 こうして校庭を見渡せば、年に1、2度儀式的に行われる非難訓練の成果など微塵も感じられない。
 災害が悲劇が現実となった時、人はこれ程までにもろいものなのかと、剣一は痛感する思いだった。

 そんなパニック状態な校庭で、剣一の目は無意識の内に花宮由美子を探していた。
 しかし校庭の何処にも由美子をはじめ、藤井先生や武術部の生徒の誰一人を観掛ける事が出来ない。
 焦る気持ちが表情に出ている剣一に気付き、橋本が声を掛けて来る。

「なぁ、剣一? 武術部のやつら誰も、おい、待てよ!」

 剣一は橋本の言葉も途中に、静止も構わず武道館を目指し走り出していた。
 ここへ来る途中で観た体育館のように武道館も崩れてしまったのだろうか、それとも何か大怪我を負い逃げられないような状態なのだろうかと、剣一の頭を過ぎるのはマイナスな事ばかり。

 剣一はただ花宮の元気な姿を確認したい、その一心で裂傷している左腕の痛みも忘れたかのように、形振なりふり構わず武道館を目指して駆け出していた。






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